【喧嘩商売】プロレスラー・力道山が最強柔道家・木村政彦を公開処刑にした「昭和巌流島」から66年、暴力はどこに消えた【1954.12.22プロレス日本選手権試合】
平民ジャパン「今日は何の日」:11ニャンめ
66年前の今日、1954年12月22日、プロレス日本選手権試合(プロレス最強を決する一戦)で力道山が木村政彦を血だるまにした。エンタメ王者だった暴力ショーは姿を消し、テレビから暴力表現が一掃される一方で、暴力は内向し、児童虐待と子供の自殺が増えている。
今回は、敗戦ジャパンの「暴力の系譜」を軸に見ていくのだニャン。
◼︎日本人はプロレスの何に興奮したのか
鬼畜米英への降伏、焦土からの復興、飢餓からの脱出、火事場泥棒の跋扈が、敗戦から10年の日本だった。朝鮮戦争で漁夫の利を得ても、その金は人々の手には渡らなかった。バラックと闇市が並び、ドブ川が町中を流れる日本で、平民ジャパンはもがいていた。
1950年代の日本において、血の気の多い男たちが熱狂し、焦燥と欲求不満をぶちまけた見世物は、プロレスだった。
プロレスには台本(ブックと呼ばれる)がある。勝ち負けは予め決まっている。今風に言えば、リアリティーショーだ。
約束通りにやらなければ、ブック破りとされ、業界で生きていけなくなる。
この日、1954年12月22日、蔵前国技館(当時)、プロレス日本選手権試合(プロレス最強を決する一戦)ーーこの試合にもブックがあった。
力道山がそれを反故にして、ブックを信じた木村政彦はマットに沈んだ。ここからテレビがいっきに普及し、プロレスが一時代を築いた。戦争は過去に置いていこう。難しい話はあとにしよう。権力者から与えられる食糧と娯楽(剣闘士の決闘、奴隷と猛獣との闘い、模擬戦争)は、市民を政治的盲目にするために役立ち、政治的プロパガンダにも使われた。古代ローマ帝国以来の愚民政策、パンとサーカスの時代が始まった。それから66年経ったいま、権力者の目的は十分に達成された。暴力を伴うコンテンツはNGとなった。暴力は表通りから消えた。日本人の攻撃性も表からは消えた。その攻撃性は深く静かに、内向している。
朝鮮半島出身の元関脇・力道山が立ち上げた日本プロレスは、始まったばかりのテレビジョン放送の最強コンテンツだった。敗戦から占領期、アメリカ人への反感・反発が蔓延していたとき、白人のシャープ兄弟が力道山&元柔道覇者の木村政彦のタッグとたたかうプロレスは、当時のスーパー・ニュー・メディア、テレビによって生中継された。巨体のアメリカ人に向かって「この朝鮮人野郎!」と、力道山が空手チョップを繰り出した。黒いタイツを穿いた頑強な「日本人」が巨体の「白人」を倒すたびに歓声が沸き、人民の憤懣は気持ちよく、プシューッっとガス抜きされた。
のちに“プロレスの日“とされる1954年2月19日に始まった14連戦のロングランは全国を巡業した。土地土地に裏社会のタニマチがいた。
スポンサーの八欧無線(現在の富士通ゼネラル)が全国各地にテレビを設置した。日本テレビ放送網(日テレ)は全国220箇所に街頭テレビを置いた。一か所ですら数千、数万の群衆が蝟集した。その後の昭和、平成、令和の、どんなキラーコンテンツも、力道山のプロレス巡業の威力と比べることはできない。他に何もなかった。人々は暴力に沸いた。演出されているとも知らず、プロレスの仮想現実に没入した。古代ローマ帝国時代からの伝統は、敗戦日本に継承された。
◼︎CIAとプロレスと保守合同と米ソ「冷戦」
道路はまだ舗装されておらず、晴れれば埃舞い、雨降ればぬかるんだ。田畑には人糞を使った肥溜めがあり、鉄道には蒸気機関車が煙を吐いて疾走した。欠乏する物資は闇で取引された。ヒロポン(覚せい剤)がふつうに使われ、結核はまだ克服されていなかった。薬品は高価だった。赤線・青線と呼ばれた売春区域が街々にあった。人々は食って生きるため、家族を養うためだけに働いた。安酒をあおって酔うにまかせ、酒場や路上で殴り合いもした。
しかし、人はパンのみにて生きるにあらず。屈辱的敗戦、米軍による占領、国家の180度転向、飢餓と貧困と重労働は、男たちの誇りを踏み躙っていた。血沸き肉躍り、憂さを晴らす見世物小屋が必要だった。この頃(1953-1954年)、免許制度によるテレビ放送と、力道山のプロレス興行が見事に同期して開始された。興行の背後には裏社会があった。裏につながる表の顔役たちもそろっていた。大野伴睦をはじめとする、強面の大物政治家たちがいた。国会では乱闘が日常茶飯事だった。日本におけるCIAの本格的活動が始まっていた。
翌1955年に保守合同によって自由民主党が結党されたことは偶然の一致ではない。世界では、朝鮮戦争が38度線を固定して休戦に至り、インドシナではディエンビエンフーの戦闘でフランスが敗退、ベトナム戦争の準備が整った。その数年後、ソ連がスプートニク打ち上げに成功、キューバ危機に至る本格的米ソ冷戦時代を迎える、そんな時代だ。
◼︎パンとサーカス——日本人にとって暴力とは何か
力道山時代が幕を開けたばかりの1954年、プロレス史にその名を深く刻むのが、昭和の巌流島と呼ばれた、力道山vs木村政彦の歴史的一戦(プロレス日本選手権試合)一戦だった。
木村政彦は全日本柔道選手権13年間タイトル保持、「鬼の木村」と称えられた日本柔道の絶対王者だった。木村の師匠の牛島辰熊も伝説の柔道家であり、東条英機暗殺計画参加によって逮捕歴を持つ、憂国の士だった。
日本の武道を代表する木村が力道山とタッグを組み、外人レスラーと戦っていた。木村はいつも、わき役だった。相撲(空手)対柔道の決着戦だ、八百長崩れだ、力道山の計略だと、いまだに検証者たちに語り継がれ、諸説入り乱れるこのイベントは、しかし、どこからみても力道山による木村政彦の公開処刑だった。YouTubeにも、その映像があるが、(力道山に都合の悪い部分とされる)約6分がカットされており、オリジナルは存在しない。
力道山の反則攻撃(ベアナックルによる顎への右ストレート、掌底による顔面殴打)を受け、意味が分からないままマットに倒れた元柔道王者、木村政彦の顔面を、力道山がシューズの尖端で容赦なく蹴り続けた。
ドクターストップでイベントは終わった。いまなら明らかに放送禁止レベルの暴力をショーにしたものだった。この惨劇とも言えるイベントがプロレス黄金時代をキックオフし、その後の二人の人生を大きく分かつことになった。このメディア的事件は「ただのプロレス」だったかもしれない。
しかし、敗戦から今日に至る「パンとサーカス」の変遷、日本人にとって暴力とは何か、いま暴力はどこにいるのかについて考える材料にはなる。
◼︎アメリカのシナリオによる戦後日本の「プロレス」化
カーニバル・レスリングという、旅芸人とともに移動興行したサーカスの出し物に起源を持つ、現在のプロレスは、アメリカから持ち込まれたものだ。
1951年、フリーメーソン系の団体が占領軍兵士向けにチャリティー興行を行った。アメリカでは敵役としての“ジャップ“(日本人に対する蔑称)を演じ、ヒールとして活躍していた日系アメリカ人たちの勧誘があって、元関脇改め「プロレスラー・力道山」(朝鮮名・金信洛、キム・シㇽラク、日本名・百田光浩)が誕生した。
1953年、力道山は日本プロレスを設立した。これを支えたのは、稀代の興行師・永田貞雄、関東の顔役、明治座社長・新田新作、そして三井合名・北炭の政商・萩原吉太郎、ともに日本の黒幕、右翼の首領として知らぬ者のいない、児玉誉士夫と笹川良一という、錚々たる超大物たちだった。A級戦犯として巣鴨プリズン時代をともにした、彼らの盟友である岸信介(安倍晋三の祖父)が、その背後にいたことは間違いない。
日本テレビによるプロレス放送には、戦前の内務官僚、大政翼賛会総務を務めた、読売新聞中興の祖、日本テレビ初代社長の正力松太郎がいた。正力が長期にわたるCIAの協力者(スパイネーム:ポダム)だったことは、アメリカ合衆国公文書館で、誰でも閲覧できる、公知の事実だ。
正力は読売新聞、日本テレビ、読売ジャイアンツを使って、3S計画(スクリーン:映画、スポーツ、セックスによる国民のガス抜き&ノンポリ化)に注力した。アメリカの書いた台本通りに、戦後日本は形成された。
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